道化坂を北に2ミリ

働けぬのです。
自分には、とうてい人の営む労働という物がこなせる自信がありません。
また、事実過去にもそのような有様でした。人と接するとなると、途端に対人諸作法は氷山に瞬結されるのです。
ところで今日の午前、所用が有り、朝のピークタイムを過ぎた頃に出掛ける事になったのですが、寝起きの無粋な頭を垂らし(私は低血圧なのです)電車の座席で呆けていると、視界の隅に矍鑠とした老人が何も言わずぬらりと現れました。するとその老人は突然、ドアの硝子に粘着している広告のステッカーを、ばりべりべりと勢い良く剥がし始めたのです。
「ええええ!」
一瞬驚いて顔を上げると、なんてことはない、その人は単に車内広告を貼り替えることを生業としている人だったらしく、腰に二丁拳銃のホルスターのように二つぶらさげたA4サイズの袋から覘く新しいシールが如実にそれを表していました。老雄はまるで、三途の川で亡者の生き皮を剥ぐ脱衣婆のように無言で車両のシールを次々と剥がし、新しき物に取り替えていきます。
過去に貼ってあったシールの上を剥がす際に、つつと九十度ずらしてそのまますぐ上に置き、その底辺に合わせて新しいシールを貼るのが、成程、職業の知恵というやつらしいです。
その様をじいと眺めながら、私は、湧き起こる幽かな期待に胸を膨らませていました。
あの無言でシールを貼るだけの仕事なら、人と話さなくても良いのではないか。即ち、私にも出来るのではないか。そういえば、幼少のみぎり、自分は家の中に要らぬシールを貼りに貼る子で、叱責されるという事を頻繁にしていたような記憶もあります。
世の中に、何億枚、数十億枚のシールがあるとして、その1%でも私に貼らせて貰えるのなら一枚につき一円でもなんとか成人一人暮らせる賃金を得られるのではないか。
ええ、任せて頂けたら、きっと僕頑張ります。きっと上手く貼って見せますとも。
不器用なので、空気とか沢山入るけど、たくさん上からパンパンします。