「浅い! 浅い! お前ら全員浅い浅い!」
「風立ちぬ」を鑑賞した俺は、ネットの海を徘徊しながらそう呻く。
ていうか、当然あるはずの感想がまだ出ていない! 出てこない!
何故だ!?
俺が聞きたかったり見たかったり読みたかったりしたいのは、
二郎がブルジョアだとか、人でなしとか、
その他細やかな「演出」に対する批評じゃなくて、
もちろん他の批評家の顔色を伺ったポジショントークでもなくて……
どうやって刺さったかだよ! この物語がお前らの胸に!
魂にこの映画を突き刺した後の取り繕わない傷口を晒して欲しいんだよ!
だから、ここで俺は俺が「風立ちぬ」をどう観たかを忌憚なく書こうと思う。
俺がどう「俺の映画」としてこの映画を受容したかを書く。
なのでここから以下はネタバレ、妄言全開になる。ご容赦願いたい。
さて、「風立ちぬ」だが。
俺にとってはもう、この映画は暫定今年ベスト映画だ。
そして人生の中でも、とても大事な一本になると思う。
ああ、まあ娯楽大作としてはそりゃあナウシカやラピュタに比べたら及ばないだろうさ。
そういう期待が裏切られたから評価を下げるという人もいるのだろう。
でも、そういうもんじゃないから。比べるもんじゃないから。
これは「俺の映画」だ。
泣いた。映画館でも泣いたし、後から思い出してもじわじわ泣いた。
どこに泣いたかって言われると、菜穂子の健気さはまあ解りやすい泣かせポイントで確かにグッと来はしたのだが、
そんなことではない。
この映画は、クリエーター賛歌であり、断罪でもあるのだ。
一般化してしまうことに若干の申し訳なさもあるが、以下にクリエーターの基本精神の一部をまとめさせていただく。
クリエーターというものは、世間的には憧れの職業(素晴らしい職業)のように思われがちだが、実は生まれながらに罪を背負っている生き物なのだ。
クリエーターは作品を作る前にまず覚悟を背負う。
どんな覚悟か?
これを作ることで誰かが不幸になるかもしれない、という覚悟だ。
作中の二郎のように家族を犠牲にする、ということはもちろんだが、それ以外にも何気ない表現で人を傷付けたりするかもしれない。
あるいは、「つまらない」と言われることだって、読者の時間を浪費させているという意味で、人を不幸にしていることと同義だ。
職業クリエーターなら、もし売れない不採算作品でも作れば、取引会社にはゴミを見るような目で見られる。
そこで、自問自答が始まる。
それでもお前はやるのか?
「人でなし」と言われようが、お前は本当にそれを作るのか?
……ああ、やる! やるっきゃねえんだよ!
それでも俺は……「これ」を作らずにはいられないんだよ!
そんな利害を超えた初期衝動が、魂を突き動かして、手を突き動かす。
これがクリエーターの「業」であり、基本精神だ。
そして、いつだってあらゆる意味でとびきり「美しい」ものを作りたいのだ。
はなから駄作を作りたいクリエーターなんてただの一人もいないのだ。
作中に、クリエーターなら必ずドキッとするであろう一つのセリフがある。
カプローニおじさん(このキャラは、クリエーターにとっては「その業界に入るきっかけになった憧れのクリエーター」の象徴だ)が二郎に言う台詞だ。
「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」
この言葉はクリエーターにとっては大きな勇気になる。
「創造的人生」というのがミソだ。
日常生活の時間は除外していいのだ。
そして、「まあ……正確には『創造的人生のピーク』ってことだろうな」、などとどんどん都合良く解釈を変えながら、クリエーター諸々は考えを巡らせる。
俺の「10年」はもう終わったのか?
いや、まだやれるはずだ。俺の創造的人生のピークなんてまだ来ちゃいないさ、などと。
そして力を尽くした結果、映画の終盤でついに革新的な戦闘機を完成させることに成功した二郎の姿に、クリエーターはまず素直に感動する。
――だが。この映画が本当に恐ろしいのはここからだ。
ラストシーン。
ここで全ての世界観が転換する。
「君の10年はどうだったかね」
「最後の方はボロボロでした」
「そりゃそうさ。国を滅ぼしたんだからな」
この会話に僕はまた内蔵が裏返って口から飛び出していきそうな衝撃を受けた。
いままで「美しいものを作りたい」という二郎のひたむきさに共感していた観客は、今まで二郎が作っていたものが恐ろしい「人殺しの兵器」(敵も味方もである)だったことに気付き、ゾッとするのだ。
今まで語ってきたこれはラスボスのお話だったんですよ、という衝撃。
少し古く別ジャンルになってしまうが、僕の好きな「ライブ・ア・ライブ」というRPGにも近い演出だと思った。
二郎のクリエーター魂は、ラスボス級に人々を不幸にしたのだ。
そして、驚くことに、この映画はその過程をあえて描かない。
零戦の墓場を築くに至った、機体が「一機も帰ってこない」特攻戦にまで至った、あの壮絶な敗戦の悲劇を、あえて描かない。
ほんの数秒しか、戦闘機が実戦に投入されるカットは写らない。
正解だと思う。
宮崎監督はここをあえて省くことで、この物語を「堀越二郎」という個人の物語ではなく、
クリエーター全体の話へと昇華させることに成功したのだ。
各々が「人を不幸にしてしまった」絶望を想像して補うことで、無数の「俺のための映画」が生まれることになったのだ。
この場面は、「やらずにはいられない、作らずにはいられない」ことによって、実際に人を不幸にしたクリエーターへの断罪である。二郎は妻を喪失した上に断罪される。
だから、このラストシーンで基本的に二郎の顔に笑顔はない。
零戦の墓場の丘を背に、クリエーターの業を突き付けられて――
犠牲になったものの象徴である菜穗子の口から、ついに一つの言葉が告げられる。
それは――「生きて」。
もののけ姫の時のように、命令形の「生きろ」ではない。
この映画は、クリエーターの罪を、業をなかったことにせず、十字架を背負いながら、それでも優しく「生きて」と言ってくれるのだ。
主人公がそう信じたいと思っただけであっても、欺瞞であってもいい。(どう考えても精神世界での話なので)
そのぐらい、世界は優しく作られているのだ。
その言葉に二郎は答える。「ありがとう」と。
「生きて」→「ありがとう」から、キャッチコピーの「生きねば」に繋がるのだ。
こんなもの見せられたら、泣くよ。俺は、号泣するよ。
庵野秀明の声は、素人だ。だから、いいのだ。
青年期第一声の時には「ヤバイかも」と思ったが、この辺りに来ると本当に良かったと思う。
上手く演じられるような人間ではいけなかったのだ。
「風立ちぬ」。
たぶん、クリエーターの業を感じた時に、この先何度も見返す映画になると思う。*1
そして、勇気と共に「俺の10年はこれからだ」「力を尽くそう」と思うだろう。
*1:このクリエーターの業を描いたという意味では、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」という映画のラストシーンも近い号泣ポイントを持っているので、未見の方には是非おすすめ。