『少女七竈と七人の可愛そうな大人』/桜庭一樹

少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人

あらゆる少女的な意識に彩られた物体を僕は愛する。
それは夕暮れに吹く冷たい風であったり、
ぶつりと切断された電線の断面であったり、
この本であったりする。


少女的な意識はあらゆるものの側面に隠れているのであるが、
容姿の美醜は、実際に意識下に強く影響を及ぼす。
この物語は、美しく生まれ過ぎた故に、「異形」と化してしまった少女「七竈」の話である。
少女的自意識は、他者を排撃しつつも強度を保つ事の出来る程度の美を所有者に要求する。
その時点で、過剰なまでに美しく描かれ、それを且つ自覚している七竈(と、それにまつわる物語)は、過剰なまでに少女的である。ならば、それに相応の視線を持って、愛でなければならない。決して近寄らず、遠距離から。この作品を読む事は、クラスにぽつんと佇んでいた美少女を遠くから眺める事に似ている。


そして、これは母娘の宿命、お互いを許す事についての物語でもある。
同じ「女」という存在でありながら、生まれながらに差異を定められた存在。
自己を規定するには、他者が必要である。
他者の意識(時には、悪意)を持って、自己の輪郭を削っていかなければならない。
そうして、母は、「少女」を削り、いんらんな「女」として自己を彫像する。
だが、七竈は最後まで、「少女」としてアイデンティティを求める。
母含め、そうする事の叶わなかった人間を、「可愛そう」な大人として、あるいは欲に駆られた愚かな男どもを、呪詛の念を持って眺める。
少女の世界には、性的なものを伴わない美しい少年と、鉄道の冷たく重い感触と、世界を拒絶する滅びの風と、母親への愛と憎しみ、それぐらいしかない。だが、大抵の少年少女と言えば、そんなものである。「少」ない人間であるからだ。他者に触れない人間の世界は狭い。それが何故尊まれるのかと言えば、死ぬまでその世界を貫き通す事の出来る「少女」はなかなか居ないからである。
作中で少年の成長を感じた少女は、ほんのりと切なく惜別し、恐らく少女はこの後に「少」を捨てる事もあるのだろう。


キルケゴールが「神」に憧れつつも、それに同一化する事は永遠に叶わぬと感じたように、
僕は脳裏に美しくも儚い完全な少女の姿を夢想し、憧憬する。
それは、一瞬の火花であれども、イメージの中では永遠に時を止める事が出来る。
この本を閉じた後に、僕は素晴らしい読後感に溜め息を吐きつつ、
出来れば続編は存在しないでほしいな、と思った。
この本の中にだけは、七竈という「少女」の意識が
永遠に切り刻まれ保存された憧憬として残されている。
それだけで、僕がこの本を愛するには充分な理由だし、
全ての少女的自意識を芽吹かせ、あるいは燻らせている方にこそ、読んで欲しい作品だと思った。