「『時をかける少女』でうつ」問題は童貞マインドだからです←結論

ARTIFACT@ハテナ系 - 『時をかける少女』を見て死にたくなる人はほかの学園ものを見ても死にたくになるのか?
トボフアンカル・ミニ・メディア(T:M:M) - 「時をかける少女」を見たら、うつになった
Something Orange -  『時をかける少女』を見ても死にたくならない。

放課後ハ 螺旋階段デ - 青春ものを見ると死ぬはずだった人間が何故「時をかける少女」を思い切り楽しめたのかを自己分析してみる



「青春ものを見て鬱になる」「ならない」という事象に関しての考察が盛んですが、この問題はもはや自分の中では決着が付いたので、ここに披露してみたいと思います。


その差異を見出すには、まず何故この現象が起きるのか、視る側の問題を指摘する事から始めなければなりません。
自分に輝ける青春が無かった人でこういう青春作品を見ても、意に介しない人もいる。では、その差異はどこから来るのか。
それは恐らく、童貞マインドの有無です。
童貞(直接的な行為の有無、性差を意味するものではない)にとって一番つらい事は何でしょうか?
それは毒男板に膾炙しているこのAAが教えてくれます。

    |                   \
    |  ('A`)           ギシギシ
   / ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄        アンアン/


「隣のギシアン」です。


特に、自分の思いを寄せる子が誰かとギシアンしてること。
あまりに逸脱したM属性の童貞なら、それを快感に換えることが出来るのですが、大抵の童貞には無理。
良く訓練された童貞は、AVの中で女の子がどれだけ陵辱されてようが鬱にならないけれど、隣でギシアンが繰り広げられているだけで鬱になるのです。*1
はい、まずうつの構造が判明しましたね。
では、この方程式を前述の問題に当て嵌めてみましょう。


「あの青春が羨ましい」作品群(あのうら作品、と仮に名付ける)の中でも、作品によって、鬱になるものとならないものがあるのは何故か。

同じ学園を舞台にして人気のあった『涼宮ハルヒの憂鬱』も『スクールランブル』では、こういった話は聞かない。いったい、どこに線引きがあるのだろうか?

これは、視聴者が主人公にシンクロする事が可能か否かの差だと思います。
ぶっちゃけ、ハルヒスクランはギャルゲと同じ構造で出来ています。
視聴者は「輝ける青春」を疑似体験できる訳です。
例えば、ここで挙げられている例で言えば、『ハルヒ』は人称がキョンの一人称視点で語られる作品の上、「キョンの本名」が明かされないため一人のキャラクターとしての個性が薄い。『スクールランブル』でも、男のメインキャラ、播磨の眼は作中で(ほとんど)サングラスで隠されているため、読者はシンクロが可能。エロゲの主人公の目がたいてい前髪で隠れてるのと同じ理論です。播磨が恋にうまくいかないストーリー展開も、非モテの共感を呼んでいるのでしょう。


それに対し、「耳すま」や「時かけ」は、完全に男のキャラが立っているので、
他者の恋愛(ギシアン)を傍観しているのと同じシチュエーションな訳です。
よって、童貞マインドを持っている人間には「他者の恋愛」を描いたこれらの作品が「鬱」と感じられる。
答えが出ましたね。証明終わり。

*1:僕はずっと「寝取られが無理」というのを主張しているけれども、これも童貞マインドのなせる技なのではないかと思う