死ぬまでに10万回『最果てのイマ』が好きと言う、その一欠片*1

http://www.venus.dti.ne.jp/~nekoneko/uso900/topi20060401.html

嘘900より


 『最果てのイマ』フルボイス版
 XUSE【純米】/11月30日/7140円
 原画:あらきまき/シナリオ:田中ロミオ

最果てのイマ』がフルボイス化される。(という情報があった。)
勿論、版権はクリエイターではなく会社が持っている為、クリエイターが望まずともリメイクはされる。
リメイクはしないという過去の発言や、社の人事状況などから鑑みても、確かにこれは制作者に望まれた形のリリースではないかもしれない。追加シーンでさえ、これだけの内観を持った作品に対しての余計な追加要素は、玉に傷を付ける行為に他ならないのかもしれない。
正直に言えば僕も、本編に田中ロミオ氏以外のライターが手を入れて濃密な文章の濃度を薄めてしまったり、不吊り合いな声が読者の想像力を奪ってしまったりしないかと言う心配が全くないかと言えば嘘になる。


だが、今は純粋に、この物語が新たに愛されるべき人の元へ頒布され、制作者に入る金銭が新たな試みを生み出すものになってくれる可能性を喜びたい。


僕は、この『最果てのイマ』という著作物があらゆる創作物の中で一番好きです。
この物語を、生み出してくれたスタッフに、無尽の感謝を、同時代に生きるが能った事への、僥倖を――。
どれだけ掛かろうが、語り尽くす事は無いのだと思える程には感じているからです。


僕は『最果てのイマ』を再読する度に、そこに込められたロミオ氏の「孤独」を他者と共有し、超越せんとする意識、溜め息の出る程美しく壮大な構造を持った展開、クライマックスの思想に、息を呑み、涙し、全身に鳥肌が立つ。
それでもこの作品が「文学」や「人生」であるとか、他の何かと比肩して安くなるような事は言わない。
「心の果てにあるものを描く物語」と言うコピーのように、この物語は完全な寓話であるからだ。
完全な虚構に、実存を重ねることはできない。
だが。


人は人の心に届こうとして、様々な学問を学ぶ。
心理学、社会学倫理学、哲学――。
理系の学問だって、敷衍して考えれば、人の営みを突き詰めようとする衝動だ。
最果てのイマ』は、「虚構」としてそこに到達せんと試みた希有な志を持つ創作物だと思っている。


人の手で人の心に届こう、ましてや一作のみで人を解そうなんて蛮行は、本来不可能である。
それはバベルの塔を積み上げるにも等しい、傲慢で夢幻じみた理想だ。
ロミオさんは、この物語を紡ぐ事が自分の力量を超えている、と語った。確かに、結果としてうまく纏める事が叶ったとは言い難いかもしれない。
それでも、ユーザーの眼前には、バベルの塔の残骸が残る。


神の見えざる手に破砕された愚かな人間の行為の残滓を仰望した時に、失敗作だと笑う事は容易い。
だが僕は、その残骸を見た時に、身体を雷鳴に打ち抜かれるような畏敬と、神々しい感銘を感じてしまった。
それは、この先永劫に渉って、この作品を愛し続けると誓えと迫る、そんな福音。
最早刷り込みにも等しい、突如目の前に立てられた巨塔を、幼子が母なる存在を求めるように愛する蒙昧な愛慕かもしれない。だとしても、僕にとっての、母胎がここにある。この作品に自分の心が囚われてしまった事を発見した瞬間に、これからの僕の創作人生は、この巨塔を愛し、相克し、打倒するための闘いになった。


だから、この作品だけは、特別なのである。
僕が生涯を掛けて、受容し解釈し舐犢し援護し相克しなければならない。
最果てのイマ』は僕にとってそんな作品なのである。
論評でも、ましてや解説でもないこのエントリを、作品への求愛文のほんの一欠片として、ここに記す。