『デミアン』/ヘルマン・ヘッセ

デミアン (岩波文庫 赤435-5)

デミアン (岩波文庫 赤435-5)

読んでいる最中、この本が自分にとって生涯死ぬまで大切な本の一冊になるであろう事をひしひしと感じながら読んだ。こんな感覚は久しぶりだ。これだから本読みはやめられない。
車輪の下」だけ読んでヘッセを語っていた昨日までの自分の浅見を恥じたい。今すぐ鈍器で撲殺。ぴぴるぴるぴ(蘇生)


とにかく、大変な打撃を受けた。
ここのところ人間としてどうあるか、という事に迷走している時期だったので、尚更染みた。
一行一行が、ヘッセの魂の逡巡であり低徊の足跡なので、どの言葉をも出来るだけ読み飛ばさないように読んだ。しかしそれでいてスピードを落とさず読める、それを可能にするだけの作品的マグネティズムというものがあるので全く苦痛では無かった。
例えこのあらすじだけ抜き出したり、映画にしたりしようが、深海の底を撫でるようなこの深みは文学にしか表現できないのだろう。
人間とは矛盾を抱えた存在である。善と悪だったり、無垢と欲望だったり、そんな二項対立の物事が作中には頻繁に出てくる。
我々はそんなもののあいだをすり抜けながら、重さ濃さを行き来しつつ生きている。そういう事に悩む、もう作中では「悩む」人と「悩まない」人が峻別されて描かれているのだが、一度「悩む」側に振れてしまった人間はもはや徹底的に悩まざるを得ない。この本はそちら側に振れてしまった者の友人として、普遍的にアドバイスをくれる。それは、作中のデミアンの言葉であり、ピストリウスの言葉であり、エヴァ夫人の言葉だ。


キリスト教的な超然とした善の存在にデミアンやピストリウスは欺瞞を捉える。人間はそんな単純なものではなく、もっと渾沌とした存在だ。だが、善と悪を内包する神、それさえも「古くさい」考えだとしたら。答えはもはや自分の中に発見するしかない。


主人公のジンクレエル青年は救いを求める。
これは救いを探す物語。
救いはどこだ。
酒場で酒に溺れていても、ジンクレエル青年は芯から逃げ切ることは出来ない。
神々しい存在だけを胸に描く。そして……。


結局ジンクレエルがエヴァ夫人に対して抱いていたのは恋心だったのでしょうか?
個人的には、愛でも欲望でもなく、超越的な存在に救いを求めていたのだったのだと思います。
万能の答えを求めて。
最後、デミアンは救いをもたらすために戦地の彼のベッドの隣に現れる。朝が来て、露とともに消え失せたのはある種の行き詰まった迷いであり、それと共に青春も終わりを告げる。地下室の下に自分を映し出せるようになったというのは、彼の人間としての成長の証なのでしょう。
とはいえ、そっからがまた永遠に孤独の道なのだろう、ということがひしひしと感じられるラストなのですが。(実際、これを書いてからのヘッセもやばかったらしい)


下世話な話だと、全般的にBL的な感覚が多くてちょっとドキドキした。むしろ愛だよなぁ。ずっと一人の超然的な存在に囚われ続けてるんだものなあ。
しかし全般に思ったのが、性欲が満たされるというのは一時的な逃避が完了するということなので、そっちに行かなかったのは全くよかった。
「ああ、一体おれの存在って何なんだろう……。 そうだソープに行こう」
これじゃあブンガク始まんねえんだよ!
それを何とかしての芸術であり、充分迷って欲しかったので満足。
しかしエヴァ夫人もそんなに思うならキスしてやれよ!
息子に代わりにキスさせるってやられた方からすりゃ一番つらいと思うぜ。
とそう思ったのは作品の余韻をぶち壊すから心の中にしまっておこう(言ってるがな