田山花袋の「蒲団」はエロゲーになり得たか

http://rosebud.g.hatena.ne.jp/crow_henmi/20061109

id:crow_henmiさんが北村透谷の評論(及び、柄谷行人日本近代文学の起源」「言葉と悲劇」周辺の言説)を絡め、
美少女ゲームと人称の歴史について述べていたことから、高橋源一郎の小説に「日本文学盛衰史」というのがあって、
田山花袋「蒲団」が現代ではAVに成り得る、というようなシーンをやっていたのを思い出した。


欧米から輸入されたキリスト教に端を発する「自意識」の普及は、
各個の領域を限定し、限定された「他者」であるが故に人間に「恋愛」を可能にした。
また、自意識の拡大の許容は、自然主義の名の下に「告白小説」こと「私小説」を創出し、
その変化は民衆にもラジカルかつ普遍的に受け入れられ、
明治以降現在に至るまでの日本における私小説、恋愛小説の興隆に繋がっていくのだけれど、


では、現代に田山花袋が居たら「蒲団」はエロゲーに成り得るのだろうか?
私小説」ならぬ「私エロゲー」は存在し得るのか?


僕の結論から言うと、答えはNOだ。
エロゲーの主人公において、「私」という人称が使われることがあっても、
僕の認識では、いわゆる「私小説」的エロゲーは存在しない。


なぜなら、エロゲーの主人公には、
プレイヤーに感情移入、同化させる為に個性を排除した「私」か、
物語を進める為の第三者的視点から見た主人公キャラクター。
そのどちらかしか存在していないからだ。
「蒲団」を無理矢理にエロゲ化しても、それは「田山花袋」というキャラクターが主人公のエロゲになるだけであり、
そこには明治四十年、女弟子の蒲団に顔を突っ込んでハァハァしていた花袋の煩悶、懊悩といった物は表現され得ない。


要するに、「私小説」をエロゲでやろうと思うのなら、
ライター自身が煩悶し、性行為に及ぶ様を一人称で延々綴らなければならない……のだが、
日本ではまだそのように思い切ったエロゲが出てきたという話は聞かないし、聞きたくないし、需要が無いようです。*1

*1:というか私小説って気持ち悪いジャンルですね。こう考えてみると。