「あたし彼女」を無条件に批判している人間は自分の読者としてのリテラシーを疑ってみた方がいい

第3回日本ケータイ小説大賞:あたし彼女
http://nkst.jp/vote2/novel.php?auther=20080001

あたし彼女」という携帯小説twitterはてブなど各方面で賛否両論(まあ否が8割程度ではあるが)を巻き起こしている。
僕も本日ざっと通読してみた。で、まあ、僕の評価はひとまず置いておくとして、
ただ、その批判のされ方には、多少なりとも思うところがあった。


いくつかの批判があるようだが、まず注目したいのは、最初の数ページの文体だけを見ての、
「こんなものは日本語ではないから小説ではない」
という意見。
僕はこういうのを聞くと何やらムカムカして、豚の臓物でも庭に投げ込んでやりたくなる。


小説というものは本来もっと自由なものである。
断定口調で「これは小説ではない」と定義できるあんたは何様なんだ。小説の神様か。
数千年の歴史と共に研鑽が行われてきた小説の技法、及び懐は、そんな浅いものではないのだ。


これは意味がない、ただの単語の羅列である、という批判。
そういう人間には、
ウィリアム・バロウズカットアップ小説を送りたいと思う。


バロウズの生み出したカットアップとはどんな技法かと言うと、あちこちの週刊誌や新聞から脈絡のない文章を切り貼り、ミックスして、小説と言い張るというものである。
そんな小説であるから、勿論、意味や脈絡を考えていこうとすると、まず常人なら間違いなく挫折する。
しかし、バロウズという作家の非凡なセンスによって切り貼りされたその文章には、不思議な疾走感があり、読んでいくうちに奇妙な酩酊感をもたらす。(ちなみに、このカットアップ手法で作られた代表的なバロウズ小説の『ソフトマシーン』なんかは、確か最近河出文庫から復刊されたばかりだと思うので、興味がおありなら一読をお薦めしたい)
「意味」を度外視して、「テンポ」を重視した小説もあるということだ。
その視点で見ると、この小説も、意外と悪くはないことに気付く。
「みたいな」
の連呼は、ラップのライムの効果をもたらし、1ページ平均2、3秒程度で読めば、中々の疾走感が生まれる。
気が付くと我々は意識せずに2,3章まで読まされてしまっている。このリーダビリティって、なかなか凄いのではないか。


また、別の批判で「読んでてイラッとした」なんて書いている人間は、よっぽど余裕がないのではないかと思う。
これは、ネタとして読む文章ではないか。実際、「吹いた」という意見も多く見ることができる。
中でも個人的には、冒頭の数ページなど、爆笑の嵐であった。

アタシ

けっこう

忙しガール

なんだよね

これは吹くだろ常考。どう見てもネタとして書かれた文章だろ。
「こんな文章にマジになっちゃってどうするの」である。

チ●コに

シリコン入れて

みたいな

このくだりなど、もはや自由律俳句の域に達している。「お〜いお茶」俳句大賞に応募してきたら大賞を差しあげたいレベルである。石川啄木の三行詩短歌を想起させもする。


よって、バロウズ=「ビートニク小説」の系譜に連なるこの作品は、内容を度外視して、迅速に、かつ笑い飛ばしながら読むのが正しい読み方なのである。バロウズも、その包み隠さぬ描写は「品が無い」と批判されたものであった。


さて、では、もう一つの要。文体ではなく内容の検証に入ろう。
この内容に関しても、皆さんは恐らく最も考慮すべき一点を見落としているのではないかと思う。


それは冒頭、1ページ目からまず現れる。

アタシ

アキ

歳?

23

まぁ今年で24

ここでまずこの小説の『違和感』に気づけないようではリテラシーが低い。
ケータイ小説である。中高生の女子を対象にした作品であり、主人公ならば普通彼女らに近い年齢設定にすべきである。
それが、まあ今年24なんてわざわざ言うくらいだから間もなく24になるのだろう、この女性、この後すぐに現在は働いていないことがわかるのだが、
いきなり24歳無職独身女性という生々しい設定が出てくるのは、おかしくないだろうか?


さて、さらに読んでいこう。

やっぱり

ビールもチ●コも

生が一番

みたいな

これである。
「ビールもチ●コも生が一番」なんて古臭い言い回し、21世紀の現代で使っているのは、この小説か夕刊フジの風俗レポートぐらいのものである。この後に「小生の愚息も昇天!」の一文を挟んでも、何の違和感もない。
そして、先述の「アタシ 忙しガール」に見られるような果てしなく昭和を感じさせる言語センス。
この辺のセンスと照らし合わせて気づけ。


これは若者が書いたケータイ小説じゃないんだよ。


若者に憧れるおばさん(予備群)が必死で書いた模擬ケータイ小説私小説なんだよ。


実際、作者の後書きでも、この作品はフィクションである、とは言っていない。作者はこれを私小説として書いた。
この大前提を看過しているようでは読者としてのリテラシーが低いと言わざるを得ない。


その視点で見ると、興味深い記述がある。
この主人公には、作品の本筋に直接絡んでこないのだが「主人公は過去に、浮気相手の妻に刺されたことがある」という設定が付与されている。このイメージが「悪夢」として、作中で、若者の読むケータイ小説としては不自然なほどに幾度も輪奏される。
以下は、作中で恋人と別れた主人公(作者)が、部屋の中で一人で寝て、悪夢にうなされるシーンである。

あぁ

アタシ

あっけない人生

こんな

寂しい場所で

一人

寂しく


嫌だな
なんか
一人って
嫌だな
嫌だな
嫌だな
嫌だな
嫌だ
嫌だ
死ぬの
嫌だ
やだ
やだ
やだ
死にたくない
誰か
誰か
やだ
やだ
誰かー!!
あぁ
こんな
暗闇で
誰も
いない
声も
届かない
怖い
怖い

これを、来年には四捨五入して30になるという独身無職独り身女性の、心の叫びと考えてほしい。
やけに生々しく、響いてはこないだろうか?


ある日、孤独に耐えられなくなった独身女性は、若者に憧れ、携帯で、無理に若者言葉を使ってケータイ小説を書いてみる。
携帯小説の中でだけ、23の彼女は若く美しく無条件に愛される。
だが、一方で隠しきれない「悪夢」を挿入してしまうほど、現実世界の「彼女」は、日々の孤独と加齢に怯えている。
そういえば、この小説の主人公である彼女に、不自然なほど「友人」といった存在が登場してこないのも、底冷えのするような現実における周囲との断絶を感じさせる。
虚実の狭間に揺れる葛藤。
その視点を加えてみると、この物語のモチーフの意味がまるで様変わりすることに気付く。


そこまでを汲み取れてこそ、読者はこの「あたし彼女」という物語を真に読み取るということになるのではないか?


と、そんなことを思ったのでちょっと書いてみました。
ま、それを踏まえた上で糞だというならいいんですけどね。
彼氏視点はいらないし後半グダグダだし僕も割と糞だと思います。