男女の友情と実弾と自己評価

あちこちで流行っているようなので、恋愛診断テストをやりました。


リーの恋愛タイプ測定テスト
http://kashiwamochi.jp/html/lets2.html#move-sentou


非モテにこんな事聞くなよ、という気もしつつ。
そしたら、あらまあ、だ、これがまあ笑っちゃうんだわ。笑えない。
いや、軽くショックすら受けている。
慌ててブロゴスフィアを検索したけど恐らくはてな界隈でもこんな極端な人は見たことがない。

恋愛のパターンとその傾向 結果 男性平均 女性平均
ルダス(Ludus)型の恋愛〜遊びの愛 24 16.71 18.34
プラグマ(Pragma)型の恋愛〜実利的な愛 12 13.27 16.91
ストーゲイ(Storge)型の恋愛〜友情的な愛 1 17.94 18.30
アガペ(Agape)型の恋愛〜愛他的な愛 32 19.30 17.65
エロス(Eros)型の恋愛〜美への愛 19 18.16 17.12
マニア(Mania)型の恋愛〜熱狂的な愛 34 20.22 19.3


くひひひひ!!!!
友情的な愛が「1」って!
正直ネタに出来る範疇なのか迷っているほどだ。



――が、まあ。
まあいいんでしょうね。
うん、正確だ。この際なので洗い浚い自分語りをしてみようと思っている。


「男女の友情は存在するか」という命題は、昔から人々の間で食傷気味なまでに語られています。
僕のその問題に関しての考えも、様々な変遷を辿ってきました。
高校生の時は、男女の友情、そんなものは欺瞞だと思っていました。
それから、東京に出て色々な世界や人間の繋がりに触れたあとに、どうやらそれは本当にあるらしい、という事が解ってきました。ただ。


ただ、唯一にして絶対の真理は。


それは、僕には、無理です。


どうか愛してくれないのなら、傍にすら居ないでください。そっちの方が、残酷だから。



と、ここまでなら世間にも割とよくある心の動きだと思われますが、僕にはまだ他にもう一つ理由がありました。
僕にはそれ以上に、下垂体から発信される性欲という衝動に対しての罪悪感が強過ぎるのです。


僕に性欲がある時点で、あらゆる女性と会話する事は重大な背徳行為になるのです。
何故?
あなたは、実弾の入った銃口を向けたまま他人に平然と話をする事が出来るでしょうか?
欲情される、と言う事は他に存在するあらゆる物理的な暴力よりも余程避けがたい暴力です。
或いは天気の話をしていても、偽装牛肉の話をしていても、ふえるわかめの話をしていても、
心の奥底。0.数パーセントは
相手を犯したいと思っている。
それは世の全ての女性に対するささやかな裏切りではありませんか?


そんな思いが、もうずっと去来しているので、
去勢をしない限り、僕は本来は女性と話をしてはいけないのです。


しかし、普通に日常生活を営む上ではそう悠長な事も言っていられません。
そこでやがて、僕はその心理から逃れるために一つの逃げ道を作りました。
それは自分の対人行動を俯瞰して眺める事です。
これは何も異性に限った事ではありません。
挨拶、返答、社交辞令、対人関係における全ての発言を
自分という唄人形の奏でている虚構の旋律だと錯視することです。
そうする事によって心の平穏を得る、という行為を続けてきた為に「ヴァーチャル的な感覚が強い」と診断され、Ludusがこんなにも高いのでしょう。


そして、その他の大きく逸脱しているAgapeとManiaの数値ですが、
これらの結果は、往々にしてある一つの事象に帰結すると思われます。
それは、僕の自己価値があまりにも低いという事です。


自己価値の低い人間にとって、自己犠牲という感情は、これはもう、必然のものです。
だって、自分の命に価値が無いんだから。
自分が愛する人=自分より命の価値の高い人の為に浪費する命に、何の論理的破綻も無く、躊躇いもあるはずがありません。(その代わり、自分より価値の無い人間を認めてしまうと徹底的に残酷になれる事に注意しなければいけませんが)


僕は自分の命を薄く引き伸ばして、そばを打つように切り刻みながら分け与えたい人間なのです。
少しでも細く強く、その事だけを思ってそばを打っていながら、お客さんには「おいしい」と言って貰えないと嫌だと言う、矛盾した人間なのです。
アンパンマンに登場するとしたら「そばマン」で、そば粉で出来た自分の腕をリストカットして子供に分け与えます。
あれ。変な方向に行った。僕は別にそばは打ちません。