化物語感想(あるいは西尾維新への愛という憎悪)

化物語のDVD、ブルーレイがやたら売れているらしいです。
僕もテレビ放送で全話見ましたが、アニメとして結構出来もよかったと思います。新房監督の遊び心と西尾維新ストーリーテリング&世界観が絶妙にマッチしていて、人気もむべなるかなと言ったところです。


で、アニメとして非常に出来が良かった結果、原作に興味を持つ人なりも増えているようです。自分の周りでも、西尾維新の西の字も知らなかったような人が何人か原作を買ったりDVDを買ったりするのをちらほら散見します。
ですが、現在「化物語」含め「西尾維新」が大ヒットしていることに複雑な感情を抱いている自分が居ることも事実なのです。


というのも、僕の西尾維新に対する感情には複雑なものがあるからです。
それはまさに、愛という憎悪とでも言うべき。
もしかすると、同時期ぐらいに西尾維新を読んでいた人間の半分くらいが共感してくれるのではないかと勝手に期待するのですが、戯言シリーズの初期、特に「クビキリサイクル」→「クビシメロマンチスト」の二冊を読んだ時に受けた衝撃があまりに凄く、それを未だに引き摺っている節があるのです。

僕がその二冊を初めて読んだのは、ちょうど18〜19、大学入学直後くらいで、登場人物の年齢ともリンクする時期でした。(時期的には2003年前後)
思春期、世間に対してのルサンチマンのみで生きていた人間にとって、その小説の空気が醸し出す捻くれ方と、自意識を肥大させた感覚には、共感なんてものでは表しきれない衝撃があったのです。


それを受け止めて(あるいは、その時は衝撃的過ぎて受け止めきれなかったのかもしれません)最初に感じたのは、「好意」や「崇拝」ではなく、ただ「悔しい」という感情でした。


なぜこれを俺が書いていないのか。


好きだけど好きと認めたくない。それを言ってしまっては、自分の負けになる。
曲がりなりにもクリエイターとしての自意識を持つものにとっては、そのような捻れた好意がしばしばあるのです。


もっとも、同じような自意識に対する共感であっても、田中ロミオ先生ぐらい圧倒的な衝撃だと完全に打ちのめされてしまって崇拝になることもあるのですが、西尾維新は年齢も幾年しか変わらない作家ということもあったと思います。


従って、自分の中で西尾維新は3メートル先にあり、違う方向から乗り越える目標として意識されていくことになるのですが、時としてその影響を隠す努力もしてなさそうな作家を見ると(『嘘つき●ーくんと壊れたまーちゃん』のなんとか人間とか……あっ、いけねっ! ファンもいるのに名指ししちゃうと角が立つよね! 伏せ字伏せ字!)腹が立ったりもするので、やっぱり根本には愛があるのだと思います。


しかし、ここからが捻れの始まりです。
西尾維新は、戯言シリーズ後期ぐらいの作品から、ミステリ的側面や自意識の葛藤部分が薄れ、ひたすら個性の強いキャラクター達が織り成すポップな小説を書くようになっていくのです。
当時は叫んだものです。
「おい! これじゃあまるであんたラノベ作家じゃないか!」と。


現在では、西尾維新と言えばすっかりラノベ作家として認識され、その方向性で実際に多くのファンが増えた訳ですから、氏の方向性は完全に正しかったのでしょう。


自意識巡りなどというのは殺し合いの螺旋に似ています。
「私」を捜す「私」に閉じこめられる日々。憎しみの連鎖。永劫因果。
そこから早々に抜け出し、大衆に歩み寄った氏の判断は完全に正しかったのです。しかし、未だに自意識の檻から逃れられずにもがいている自分としては、どうしてもあの頃を思い出し、「愛という憎悪」を持って西尾維新という作家を見てしまうのです。


化物語ファンに対して抱くのも「本当の西尾維新はそんなんじゃなくて……!」みたいなもどかしさなのですが、実際それが現在の西尾維新なわけだし、アニメを汚れ無き心で楽しんでいる人にとって、傍迷惑で懐古主義なだけの意見になってしまうので、こういうブログでこうやって愚痴ることぐらいしか出来ないのです。もどかしい。
これをなんかで例えられないかなと思ったら、局地的に通じる例だと
ラノベの作品だけを読んで「田中ロミオって最高だよな!」と言っている人』
に対する複雑な感情に似ているような気がしましたが、あまりに局地的な比喩でどうしようもないですね。なんかいいの誰か考えてください。


全然アニメの感想になってなかった。
萌えは(戦場ヶ原≧撫子>神原>八九字>羽川)
話の内容は(八九字>戦場ヶ原>神原>撫子)
つばさキャット続き早く配信しろ。
神前暁(←さいきん「こうさきさとる」って読めるようになった)の音楽が素晴らしい。
曲だと『恋愛サーキュレーション』、ヘビロテです。

D

まあアニメだけで見たらそんな感じでいいんです。