さよなら絶望先生(1)

待望の、という言葉がしっくり来る。
サンデーに連載されていた「かってに改蔵」から一年弱、
鬼才ギャグ漫画家久米田康治の新作漫画がついに発売された。

その名も『さよなら絶望先生』。
なぜか着物を着たネガティヴ教師が絶望したり自殺未遂しながら
ひきこもりやストーカーと言った32人の絶望的な生徒たちと
学校生活をこなして行くという漫画である。

なんだかあらすじだけ見るととてもギャグ漫画とは思えない。

が、これできちんとギャグ漫画になっているのである。すごい。

そんな訳で普通に面白いギャグ漫画である『さよなら絶望先生』だが、
私的には、『絶望先生』の裏テーマは、『日本文学への試歩』であると思っている。
この漫画、文学好きにはたまらないガジェットが大量に散りばめてあるのだ。
「恥の多い生涯を送ってきました」
「トンネルを抜けると白かった」
「僕の前に人はいない 僕の後ろに君はいる」

それが、前作までの現代社会の時事ネタを多く取り入れてきた作風に照らし合わせ、違和感を感じ、「あざとい」「久米田の趣味」と言う方もおられるだろう。だが、今回のこの作風は、私的にはとても自然な流れであると思っている。それはこの漫画が始まるまでの経緯を考えれば納得できる。
かってに改蔵』の後期において主軸となっていたのは諷刺あるあるネタとでも言うべき羅列ネタであった(一応今回にもそれは継承されている)が、連載が終盤に行くに従って、『改蔵』は壊れ始め、自然に猟奇殺人や人格崩壊がそれに絡んで行われるようになっていった。(でも、それでもギャグ漫画。)久米田の精神が病んでいった象徴である。
そして、編集長の意向によって打ち切り。その久米田の絶望たるや、公述に値しないだろう。

最終巻あとがき
「この連載中の六年間を一言で振り返ると、反省と後悔と絶望の日々である。
一年365日、後悔しない日は無い。
早い時など、起きて一時間でもう後悔している。2時間後には、絶望の淵をさまよっている。
(中略)
私は死にたがりである」

頻繁に出てくる『絶望』の文字。
そう、今思えばこの時点で次回作は決定していたのである。

桜玉吉古谷実など、ギャグ漫画家と鬱が切っても切れない関係になる事は多い。
そして、芥川竜之介太宰治夏目漱石
日本文学というのもまた、鬱や閉塞状態と密接に関係してきたのである。

そう考えると、絶望に侵されたギャグ漫画と日本文学が結びついたとしても、何ら違和感はない。
『絶望』と『ギャグ漫画』と『文学』の幸運の出会い。
それが『さよなら絶望先生』という漫画なのである。

日本文学(特に明治期)好きな私としても、その邂逅は非常に喜ばしい事である。
そして、太宰や芥川に出来なかった
「『絶望』を笑う」
という行為に恐らく初めて挑戦しているのが久米田康治なのだと思っている。

そんな訳で『さよなら絶望先生』が売れて、アニメになり、動画で首吊りをしてくれる事を期待しているのであります、一介の文学好きとしては。

とりあえず、この言葉で〆よう。

絶望した!

さよなら絶望先生(1) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(1) (講談社コミックス)